この主題には、避けて通れない落とし穴があります。
「女性性」「男性性」という言葉が、そのまま女性・男性という人間のことだと読まれてしまうという問題です。
そして、そこから「女性は受け取る側」「男性は与える側」といった話が始まり、気づけば古い性役割を、スピリチュアルな言葉で言い直しただけのものになっている。
伝統が言っていたのは、そういうことではありません。順を追って見ていきます。
サンスクリット語の シャクティ(Śakti) は、「力」「能力」を意味する語です。
インドの思想では、この語は顕現する力そのものを指します。この世界が現に在ること、動いていること、形を持っていること ── その働きの全体がシャクティです。
対になるのが シヴァ。こちらは意識、静止、可能性の側です。
重要なのは、この二つが人間の男女に対応するものではないという点です。一人の人間のなかに両方があり、どんな現象のなかにも両方がある。シヴァだけでは何も起こらず、シャクティだけでは方向を持たない。
よく使われる比喩があります。シヴァは屍のようなもので、シャクティが乗ってはじめて動き出す。 意識だけでは、世界は生まれない。
インドの伝統では、このシャクティが具体的な女神の姿を取ります。
ドゥルガー は戦う女神です。優しさではなく、断ち切る力として現れます。
カーリー はさらに苛烈で、しばしば恐ろしい姿で描かれます。破壊と時間の女神であり、執着を引きはがす働きを担います。
トリプラ・スンダリー は美と至福の女神で、シュリー・ヴィディヤーという体系の中心に置かれます。
ここで気づいてほしいのは、女神たちが必ずしも「優しく受容的」ではないということです。むしろ荒々しく、断固としている。「女性性=柔らかく受け入れるもの」という現代の図式は、元の伝統には無いと言っていい。
西洋の系譜では、この原理は繰り返し周縁へ追いやられました。
グノーシスの思想には ソフィア(叡智)という女性形の存在が現れます。彼女の物語は、しばしば「墜ちて、この世界を生み、やがて回復される」という形を取ります。これは物質世界と精神世界の分離、そしてその和解の物語として読めます。
けれど、この系譜は正統から外され、テキストの多くは失われました。二十世紀にナグ・ハマディ文書が発見されるまで、私たちは敵対者の記述を通してしか彼らを知りませんでした。
中世以降、神の像から女性的な側面が抜け落ちていく過程は、この領域の知が地下に潜る過程と重なっています。錬金術が独特の暗号めいた言葉づかいを持つのは、偶然ではないでしょう。
日本には、この原理が比較的そのまま残っています。
天照大神 が最高神として女神であること。弁財天 が水と芸能と豊穣を司ること。山や海に女神を見る感覚が、いまも各地に残っていること。
一方で、女性を穢れとして扱う観念も同時に存在しました。同じ文化のなかに、崇敬と忌避が併存している。 これは日本に限った話ではなく、この主題を扱うときに常に出てくる二重性です。
ここまで見てくると、冒頭の落とし穴がはっきりします。
シャクティは、女性という性別のことではありません。 顕現する力、動く力、形を与える力のことです。誰のなかにもあり、誰のなかでも眠りうるものです。
ですから、次のような言い方には注意してください。
これらは、伝統の言葉を借りた性役割の再生産になっている場合があります。伝統が語ったのは原理の話であって、誰がどう振る舞うべきかという規範ではありません。
現代の「女性性を取り戻す」系の言説には、二種類が混在しています。抑圧されてきた身体感覚や直感を回復するという、真っ当な内容のもの。そして、旧来の性役割を心地よい言葉で塗り直しただけのもの。見分ける基準は簡単で、「あなたは本来こうあるべきだ」と言い出したら、後者です。
では、この理解は何の役に立つのか。
自分のなかの動かない部分に気づくためです。
考えてばかりで身体が動かない。感じているのに形にならない。逆に、動き続けているのに方向が定まらない。こうした状態は、シヴァとシャクティのどちらかに偏っていると読むことができます。
伝統がこれを性の合一になぞらえたのは、その二つが出会う場所として、身体がもっともわかりやすい舞台だったからです。比喩ではなく、実際に確かめられる場所として。
次の記事では、その力が身体のどこをどう通ると言われてきたのかを見ます。