恋をしているとき、なぜか仕事がはかどる。
失恋のあとに、急に何かを作りたくなる。長く抑えていたものが解けたとき、言葉があふれてくる。
これは特別な体験ではありません。 ほとんどの人が、説明できないまま経験しています。
伝統がしてきたのは、この当たり前の現象に名前と方法を与えることでした。
中国の房中術には 還精補脳 という言葉があります。精を還して脳を補う、という意味です。
ここでは性エネルギーは、消費すれば減るものとして扱われます。放出して終われば、それは外へ出ていく。放出せずに巡らせれば、身体の別の場所で使われる。
素朴な物理モデルのように見えますが、観察としては的を射ています。 放出後の弛緩と眠気を、誰もが知っているからです。
ヨーロッパの錬金術には solve et coagula(溶かして、固めよ)という標語があります。
錬金術の文献は、金属の話をしているように見えて、しばしば別のことを語っています。粗いものを溶かし、精製し、再び形にする ── この工程が、人間の変容の比喩として使われました。
性的な象徴が頻出するのも、この文脈です。結合、受胎、誕生。性は、変容という抽象的な出来事を語るための、最も具体的な語彙でした。
二十世紀に入って、フロイトが 昇華(Sublimierung) という概念を立てます。
性的な衝動が、直接の充足ではなく、社会的に価値のある活動 ── 芸術、学問、労働 ── に振り向けられる過程を指します。
枠組みはまるで違います。フロイトは霊的な上昇など考えていません。それでも、観察されている現象は同じです。
三つの文脈が、それぞれの語彙で、同じ場所を指している。この一致が、この主題を単なる思いつきではないものにしています。
ここが、この記事でいちばん大事な部分です。
抑圧と昇華は、似て非なるものです。 そして、しばしば取り違えられます。
抑圧は、感じないようにすることです。欲望を無かったことにする。目を逸らす。「そんなものは自分にはない」と思い込む。
昇華は、感じたうえで、行き先を変えることです。欲望はそこにある。強さも認めている。ただ、放出という出口ではなく、別の出口を通す。
見分ける手がかりがあります。
苦しいなら、それは昇華ではありません。 ここを間違えると、禁欲そのものが目的化し、自分を痛めつけることが修行だと錯覚します。歴史上、この取り違えは繰り返し起きてきました。
現代の自己啓発書には、性エネルギーの「転換」を成功法則として説くものがあります。読み物としては面白いのですが、多くが抑圧の推奨になっています。 我慢すれば力になる、という単純化です。伝統が言ってきたのは、我慢ではなく、扱い方の話でした。
大げさな技法はありません。手順は三つです。
一、認める。 欲望が起きたとき、否定も肯定もせず、「いま起きている」と観察する。消そうとしない。追いかけもしない。
二、留める。 すぐに出口へ向かわない。呼吸とからだの手順三と同じで、頂点の手前で待つ。息を止めない。
三、向ける。 その状態のまま、作りたいものに向かう。文章でも、絵でも、料理でも、掃除でもいい。
三番目は、意外に思われるかもしれません。エネルギーが高い状態のまま何かに取りかかると、集中の質が変わります。 これは実際に試せることです。
ただし、これも目的化しないでください。 「創造性を高めるために性を管理する」となった瞬間、また別の窮屈さが始まります。
最後に、少し引いた話を。
伝統がこれを重視したのは、生産性のためではありません。
同じ力が、複数の形を取りうるということ自体が、発見だったからです。
自分のなかの、抗いがたい力。押し流されるしかないと思っていたもの。それが、実は方向を選べるものだった ── この気づきは、性の話にとどまりません。怒りにも、悲しみにも、同じ構造が見つかります。
性が最初の教材になったのは、それがもっとも強く、もっとも身近だったからです。
入口は、ほかにもたくさんあります。