更年期以降の性について語られるとき、しばしば二つの別の話が混ざります。
ひとつは、身体の変化の話。 これは事実であり、対処法があります。
もうひとつは、意味の話。 こちらは事実ではなく、文化が用意した物語です。
この二つを分けないまま「もう歳だから」で片づけてしまうと、扱えるはずの問題を放置し、扱う必要のない物語に縛られることになります。順に見ていきます。
閉経の前後、女性ホルモンの減少にともなって、性器や尿路の粘膜に変化が起きます。近年は GSM(閉経関連泌尿生殖器症候群) という名前でまとめて扱われます。
主な訴えは次のようなものです。
ここで最も大事なことを書きます。これらは、治療の対象です。
局所的なホルモン療法、保湿剤、その他の選択肢があり、多くの場合ではっきりした改善が見込めます。 医師に相談できます。
けれど、多くの人が相談しません。理由は「歳だから当然」と思っているからです。
当然ではありません。 歳を重ねると起きやすい、というだけで、放置すべきものではない。膝が痛ければ整形外科に行くのと、同じことです。
「潤滑剤で対応する」で足りる場合もありますが、粘膜そのものが薄くなっている状態には、それだけでは届きません。痛みが続くなら、原因を確かめてください。
性欲の変化も、多くの人が経験します。
減る人がいます。増える人もいます。質が変わるという人が、おそらくいちばん多い。
これらは異常ではありません。ホルモンの変化、身体の変化、そして人生の位置づけの変化が、同時に起きているだけです。
問題は、「以前と同じであるべきだ」という前提のほうにあります。
日本語圏でも英語圏でも、更年期以降の性について流通している物語はだいたい二つです。
衰退の物語 ── 終わりに向かう。もう卒業。恥ずかしいこと。
抵抗の物語 ── 何歳になっても現役。若さを保て。まだやれる。
どちらも同じ前提の上に立っています。若い頃の性が基準であるという前提です。片方はそこから落ちることを嘆き、片方はそこに留まろうと努力する。
基準そのものを疑うという選択肢が、ほとんど語られていません。
ここが、このサイトの主題と交わる場所です。
聖なる性を扱ってきた伝統には、興味深い共通点があります。生殖を目的としない性を、劣ったものとして扱っていないという点です。
タントラの文脈では、性の合一は子をなすための行為としてではなく、認識の実験として位置づけられました(聖なる性の系譜)。
道教の房中術は、放出しないことに価値を置きました。生殖と逆の方向です。
つまり、これらの伝統においては、生殖能力の有無は、この主題の中心的な条件ではありませんでした。
さらに言えば、多くの伝統でこうした知は年長者が担うものとされてきました。若さは条件ではなく、むしろ経験と落ち着きのほうが求められた。
「終わった」という物語は、伝統から来たものではありません。 かなり近代的な、そして商業的な物語です。
変わるもの
変わらないもの
後者はすべて、このサイトの実践で扱っている領域です。年齢による条件がありません。
むしろ、急がなくなること、達成を目的にしなくなることは、この実践においては有利に働きます。 若い頃にいちばん難しかった「目的を降ろす」ということが、自然にできるようになる。
一、症状があるなら医療へ。 乾燥、痛み、出血、頻尿。「歳だから」で終わらせない。
二、以前と比べるのをやめる。 比較対象を過去の自分に置いている限り、変化はすべて損失に見えます。
三、感覚の地図を作り直す。 身体が変わったなら、地図も更新が要ります。呼吸とからだ の手順二から。
四、意味を置き直す。 何のためにこれを続けるのか。生殖でも、若さの証明でもないとしたら、何なのか。
四番目の問いに、既成の答えはありません。ただ、同じ問いを何百年も前から扱ってきた人たちがいるということは、知っておいてよいと思います。
その系譜は、こちら にまとめてあります。